汚れた心での人助け・善行

善行為とは「心を浄めた状態の行為や、動機とする行為」ということは、4回にわたって書きました。悪行為とは、その逆で、汚れた心による行為や、動機とする行為ですね。

では、もしも、汚れた心で人助けや社会貢献をした場合、どうなるのでしょうか。興味のある話しかもしれませんね。

ちょっと怖い話しになるので、書くのもためらいます。またシリアスな話しが続いていますので、読んでいる方はひいてしまっているかもしれません^^;ですが、知らないと知っているでは大変な違いが出てきますので、少しだけ書いてみたいと思います。

汚れた心で行った場合、相手に与えた何らかの物事は必ず返ってきます。いわゆるカルマの法則ですが、カルマというのは、必ずかえってきます。このことはパーリ仏典にも数多く記載されています。いかなる人もカルマから逃れることができません。

ですので、仮に汚れた心で(相手をバカにしたり、憎みながら何かを与えたとしても)、その見返りは必ず戻ってきます。

しかし、見返りは少ないといいます。一番良いのは、きれいな心で施しをした場合になります。こうすると、何倍、何十倍、何千倍となって自分に戻ってくるとがパーリ仏典には書いてあります。

ところで、怒りや憎しみ、騒がしい心の部分はどうなのでしょうか?これも戻ってくるのでしょうか?

はい、これもきちんと返ってくるそうです。苦痛となって返ってくるといいます。相手に嫌な思いをさせたなら、かならず、自分にも嫌な思い(苦痛)として戻ってきます。

仏教ではカルマとは、「心で受けるもの」としています。

相手に何か物を授けたなら、もちろん物として巡ってきますが、その与える際の心の有様も戻ってくることと言われいます。そうして、ここにポイントを置いています。

誰かに怒りながら「ほら!くれてやる!」とすれば、いつかどこかの生涯で、同じように与えられながらも苦悩に陥ることが出てくるようです。

分かりやすい例でいえば、良い所に就職したり、お金持ちになっても、人には言えない大変な苦労を背負うとか。そういう矛盾に悩むようになります。

ですので、できるだけ心を穏やかにして、明るく、落ち着いた様で物事を行ったほうがいいわけですね。なぜなら、そういう心になれる見返りが来るからです。

少々、物に恵まれなくても、心はいつもハッピー、そういう状態でもいられます。「幸せ」とは、心が感じるものです。物や人間関係でも幸せ感が得られますが、それを感じるのは心です。

たとえ物や人間関係が豊かであっても、かえってこれで苦労するケースもあります。この原因は、汚れた心で布施(与える行為)を過去世において行っていたからです。ですので、同じことは繰り返さないほうが良くなります。

明るく、やさしく、落ち着いた心で日々過ごすことを基本とするなら、後の世の生涯は、基本的に穏やかでしょう。これは賢者の智恵です。

この辺りは、仏教の善悪論に通じます。

攻撃性、暴力性、粗暴、貪欲、騒がしい、落ち着きがないといった心は危険です。死後の転生先にも関わってくるようです。畜生界、地獄界、あるいは天宮餓鬼界という世界へ転生していくようです。

ちなみにお笑い芸人のようなことも危険のようです・・・。あまりこういうことは書きたくないのですが、地獄へ行くとあります。まあ、あまり教条主義的になってはいけませんが、一応、そのようにパーリ仏典には記されているということですね。

現代のメディアに毒されない生き方をおすすめするのも、こういった理由もあるからです。

ちなみに誰だって、苦ありゃ楽ある人生です。人間とは、そういうものです。ここでは原則論を述べていますので、その辺りはご了承を。

今回の話しは、怖すぎるところもありますし、気分の良い話しではありませんので、この辺でやめておきましょう・・・。