仏教を言語で説明する
仏教を言葉で説明することは大切です。
しかし、限界もあります。特に涅槃、悟りといったものは、体得していないと本当は説明もできないでしょう。
ですが言語化して説明できる部分はあります。しかもそれはわりと多くあります。
仏教を説明するとき、言語化できる部分を言葉で説明するのがいいと思います。涅槃などは言語で説明はできません。その他、理解しがたい概念は、言語化することは限界があります。こういったものは言葉での説明は難しくなります。
悟った方ですら、涅槃は説明できない(避ける)わけですから、実質、不可能でしょう。
ナーガーセーナ尊者は涅槃の言語化をした
しかし、ナーガーセーナ尊者という方は、涅槃をとことん言葉で説明されました。それが「ミリンダ王の問い」というパーリ仏典にあります。
言葉で説明されたものは、その言葉を足がかりにして推測するしかありませんね。仏教で使われる概念も、実はこういうのが多くあります。無常、苦、無我もそうです。
悟りを体験しないと本当は仏教は語れない
体験しないと、その本当の中身は分かりません。しかし経典の中に数多く残され言葉から類推していくことは可能でしょう。推理と分析をふるに働かせて、その本質にある程度迫ることは可能だと思います。
ただ、推理したものが「絶対に正しい」と決めつけることは、よくないですね。
一方、四聖諦、八正道など、ある程度、推理等を働かせてアウトラインが分かるものは結構あります。
仏教を知るためには、経典学習は必要であると思います。できれば、精密に、しかも徹底的に調べ尽くして、可能な限りの学習をしたほうがいいと思います。
ですが一方で、至心に瞑想を行い、実践を通して答えを得ようとする方法もあります。
後者の方法も良いと思いますし、できれば両方行ったほうがいいと思います。
仏教は言語化に限界がある
仏教は言語化することに限界はあります。しかし言葉でしか説明できませんので、可能な限り言語化していくことは良いことだと思います。
ただし、言葉を使って真理に到達することは不可能でしょう。言葉は、実践の仕方や、実践の方向性を示す役目を果たすものに過ぎないからです。