梵天という神さま
ここ数日、梵天(ぼんてん)について書いています。梵天とは最高神です。しかしインドにおいて、「梵天」には3つの意味があります。このことは前回のこちらの記事でも書きましたが、
- 宇宙創造神(創造主)・・・バラモン教(ウパニシャッド)
- 無色界・色界における梵天・・・原始仏教
- 宇宙の真理・ダルマを象徴した存在・・・密教、ヒンドゥ教
という3つの意味ですね。
梵天とは「ブラフマー神(Brahmā)」をいいます。しかしインドでは、文脈によって3つの意味になります。
梵天勧請においては、「宇宙創造神(創造主)」としての梵天になると思います。キリスト教の世界でいう「創造主」と同じですね。
今回は、この梵天について掘り下げて書いてみたいと思います。
宇宙創造神(創造主)としての梵天
宇宙創造神(創造主)としての梵天は、バラモン教(ウパニシャッド)で頻繁に登場しますね。
いわゆる「アートマン」と「ブラフマン」です。
ウパニシャッドの梵我一如
ウパニシャッドにおいては、究極の個我である「アートマン(真我)」と、宇宙創造神としての「ブラフマン(宇宙)」との一体を目指します。これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいますね。
ウパニシャッドにおいては、梵我一如を目指す教えや方法が探求されています。つまり、ア^トマンとブラフマンの一体ですね。で、まずアートマンを自覚して、そうしてブラフマンとなってゆくいというアプローチをとります。
この流れは、アドヴァイタ・ヴェーダンタでも踏襲され、基本的なアプローチになります。近代の覚者であるラマナ・マハルシをはじめ、真我到達は、ヒンドゥ教における解脱の基本となります。
インドでは、アートマンとブラフマンの2つの概念を使って、解脱への道を模索するのが、ウパニシャッド以来の伝統です。
にアートマンと対になって登場する「宇宙創造神(創造主)」としての梵天(ブラフマン)が、インドのウパニシャッドでは、ブッダが登場する以前からあります。
ブッダは如実知見
なおブッダは梵我一如とは違う有り様を発見します。それが如実知見(あるがまま)ですね。
「あるがまま」によって認識がいったん遮断し、再起動し、悟りとなることを発見します。このことは禅に引き継がれています。
「如実知見」という、ブッダjの大発見により、解脱・悟りの門が開かれたわけですね。
パーリ仏典の中部経典26経「聖求経」にある梵天勧請に登場する「梵天」は、原文に「世界の主」とありますので、「宇宙創造神・創造主」としての梵天(ブラフマー神)になるのではないかと思います。
バラモン教・ウパニシャッドで使われているのブラフマン(梵天)を擬人的に登場させ、ブッダに「ダンマを説くように」という物語を取ることで、仏教がバラモン教・ウパニシャッドよりも優れていること誇示するために創作した表現ではないかとも思います。
無色界・色界の梵天という神
原始仏教においては、最高神としての梵天という生命体がいらっしゃることを伝えています。
それは無色界・色界における神「梵天」ですね。梵天という神々です。リアルに実在していらっしゃいます。梵天は、普通の神様とは次元を異にした神さまです。
常に禅定状態にいる神
無色界・色界にいらっしゃる神・梵天は、一つの生命体です。輪廻転生します。原始仏教における梵天は、天界における無色界と色界にいらっしゃる最高神です。わかりやすく言いますと、神さまの中でも最高位となる神さまですね。
梵天の神さまは、常に禅定状態にあり、一体感(ワンネス)あります。寿命も21億年以上という長い寿命です。しかも体の大きさも巨大です。6㎞から火星や木星くらいの巨大な体といいます。本当に大きな神さまですね。
梵天の神さまは、六欲界の神さまのようなハッピーな状態を超えて、もっと深く静かで統一した心で存在していらっしゃいます。この心の状態が、いわゆる「禅定」という状態です。
心はほとんど動かず、無心か無心に近い状態になり、喜びと快楽と統一感といった状態で静かにたたずんでいらっしゃいます。
また愛に大変あふれて、いわゆる「慈悲」「アガペー」のかたまりの存在となっています。「ワンネス」でもありますね。自分と他人との区別がなくなり、一体感だけが存在するマインドです。
生命体としては、最高の存在、それが梵天という神さまです。
無色界・色界は決して崩壊しない永遠の世界
しかも宇宙(世界)が崩壊しても、色界二禅天以上は永遠に存在しつづける世界です。永遠に存在しても、この世界に住む神々には寿命があるってことなんですね。世界は永遠だけれども、住民の神さまには寿命があるってことになります。
地球を含めた銀河系は生滅を繰り返していますが、色界二禅天以上は、世界が崩壊しないということなんですね。そういう世界が実際に存在しています。
無色界・色界禅定を修した者だけが行ける天界
無色界・色界は、無色界禅定、色界禅定を達した者だけが行ける特別な天界です。禅定ができるようになりませんと、無色界・色界へ行くことはできません。決してできません。
ですので通常の神々にとってのあこがれの神さまだったりします。神の中の神、それが最高神・無色界・色界の梵天でいらっしゃいます。
また解脱の修行をして「不還果(ふげんか)」となった者だけが行くことのできる「浄居天(じょうごてん)」も色界にあります。
禅定ができない人間は決してコンタクトできない天界
ちなみに無色界や色界の梵天とは、通常はコンタクトできません。禅定ができない人間は、決してコンタクトできない天界なんですね。
なので「梵天とチャネリングした」というのは真っ赤なウソになります^^;
チャネリングに多いのは六欲界の神さま
たまに神がかりの状態になる方もいますよね。いわゆるチャネリングです。昔は「いたこ」「口寄せ」といっていました。
が、こういうケースは普通の神さまとのコンタクトになります。つまり「六欲界(ろくよくかい)」という、一般的に「天界」といわれる世界の神さまとのコンタクトですね。
しかも四天王界や三十三天という、下から1~2番目の地神といわれる神々です。
六欲界の神々
六欲界の神様は、人間界と似ているといいます。ふつーに生活をして、商売をしたり、そんな生活を送っているといいます。しかし人間とは異なるところがあります。それは心の振幅が小さいということですね。
六欲界の神々の場合、簡単に言ってしまいますと、いわゆる「ポジティブシンキング」状態です。プラス思考ですね。いつも明るく、楽しく、ハッピーで、幸せな気分、それが六欲界という世界の神様の心の状態といわれています。
人間と違い、心が変化しにくいのが神さまの特徴です。ですので、ずーっと喜びにあふれていたり、幸せ一杯の状態が続くようです。中には、死ぬまで遊び続ける神さまもいらっしゃるようです。
ですが、神さまといいましても、一面、弱点があります。それは、人間のように大きく心を変化させることができないため、瞑想修行とかは大変らしいです。
実は人間だけが心を大きく変化できる生命であったりします。ですので、神さまの中には、あえて人間に転生してきて、人間となって修行をする方もいらっしゃるようです。
梵天でも勘違い・間違いをおかすことがある
無色界・色界にいらっしゃる神・梵天は、生命体としては最高の存在ですね。
ですが、最高の生命でいらっしゃる梵天でも、勘違いや考え違いをすることがあるようです。仏典には、梵天のこういった側面がいくつか書かれていて、「え?」と思わせます。
梵天は寿命が大変長い方ですので、中には「我は永遠の存在である」「絶対的な存在である」と思っていらっしゃる方もいるようです。
ですが、「それは、そなたが長生き過ぎるので、過去世(前世)のことを思い出せなくなっているため勘違いされているのですよ」と、お釈迦さまが梵天を諭すシーンが仏典にはあります。
梵天といえども勘違いしされるようですので、もし仮に勘違いされたまま人間界に何らかのメッセージを送られ、これをキャッチされた人間が発言し始めると、やがて世界に混乱も起きてくるかもしれません。
ですが、そういうことがあったとしても、梵天は立派な心を持たれた方でいらっしゃいます。
宇宙の真理・ダルマを象徴した存在
最後に「宇宙の真理・ダルマを象徴した存在としての梵天もあります。
これは後期大乗仏教である「密教」の時代に登場する「大日如来」が有名ですね。
大日如来は、宇宙の真理と仏法(ダルマ)を象徴した存在といわれています。
こうした概念は、ヒンドゥ教にもありますが、密教の時代になると、仏教はヒンドゥ教を拝借して形をかえた仏教のスタイルを取ります。
ただし注意していただきたいのは、この当時の仏教がすべて「密教になった」というわけではないんですね。そのことはこちらの「本当の仏教」の歴史をご覧になっていただければと思います。
密教が登場した頃でも、仏教の主流は原始仏教(部派仏教)でした。また大乗仏教と呼ばれるものは、初期大乗の中観派と、中期仏教の唯識派だけです。
日本でお馴染みの法華経や浄土経に基づく仏教は、インドでは亜流であり、仏教もどきとされていました。
梵天のまとめ
梵天には、3つの意味がありますが、原始仏教での梵天は、99%が無色界・色界にいらっしゃる生命としての神・梵天です。リアルに実在している方です。
しかし人間も梵天の心になれます。それが瞑想です。瞑想をすることで、心が静まり、静寂になり、心の動きがなくなってくると、スーっと入っていくことがあります。いわゆる「禅」「ジャーナ」「定」と呼ばれる状態です。「禅定」という状態ですね。
慈悲の禅定に入ることのすごさ
ちなみに禅定には慈悲から入ることもできます。これを「慈悲の禅定」といいます。
で、ブッダは過去世において慈悲の禅定に7年間入り、その後、梵天に何度も生まれ変わり、人間に転生すたときも転輪王という理想的な王様となって、宇宙が7回生滅する途方も無い長い時間、しあわせの絶頂にいつづけたことが、パーリ仏典にあります。このことはパーリ増支部経典 第七集 第六「無記品」にあります。
またパーリ仏典 増支部経典 十一集 第二臆念品 十六「慈」には、慈しみの途方も無い功徳について述べられています。
慈悲の効果がすごい
人間が禅定に入ることができるのは大変ラッキーなことです。六欲界の神々でも難しいとされる心に、人間が到達できるというのも、実は人間という生命の「特権」であったりします。特殊性だったりします。
人間の時代に、梵天の心(禅定)となることは、極めて有益なことだったりします。