仏教の歴史についてかなり力が入ってしまい、初めての方は、途中でわけがわからなくなったかもしれません。
ですが要するに、お釈迦さまが亡くなった後、100~200年の間に少しずつ変化していき(部派仏教)、500年くらい経ってから大乗仏教が出てきたということです。
部派仏教は、多数派の上座部と、少数派の大衆部に二分していたということです。傾向としては、上座部は伝統的な修行法に加えて、森羅万象の存在原理や時間と空間との関係などを、瞑想によって深く掘りさげて、この世の仕組みまでを解明しようとしました。
一方の大衆部は、それは推測ですが、地球以外の銀河にも多くの仏陀がいることを瞑想によって知り、その探求を始めたのではないかということです。
この二つの路線となっていったのですが、どちらも「偏り」が出てきたということです。偏りがありながら、正論を言われても、そりゃ聞く耳を持たなくなるのも当然といえば当然かもしれません。
歴史的資料が乏しいですので仏教の変遷の理由を解明するのは難しく、推測が多くなりますが、私としては、瞑想修行による超越的な能力が関与していた可能性が高いとみています。
しかしお釈迦さまがいらっしゃった当時、必ずしも神通力のような超人的な能力は必須ではなかったようです。悟りに至った方々にも、そういう特殊な能力も備わらず、ふつーな感じの方々も多かったようです。そういったことが書かれたお経もあります。
元々、仏教は、心を清めることで、究極的には悟りに至れるとした実践行になります。
スーパーマンのような能力を求めたり、運命を転換するといったことが目的なのではないのですね。あるいは部派仏教のように、森羅万象の存在原理の解明を試みたり、宇宙の仕組みを解明しようとするものでもありません。
仏教とは、一言でいってしまいますと「心を浄める教え」になります。
「七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)」という、有名なフレーズが残っています。おそらく誰でも一回は耳にしたことのある言葉だと思います。七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)とは、
諸悪莫作(しょあくまくさ) ⇒ 悪いことをしなさんな
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ⇒ 良いことをしましょう
自浄其意(じじょうごい) ⇒ 自分の心を浄めましょう
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ⇒ これがもろもろの仏陀が特教えです
というものです。この通りです。これを詳し~く説明しているのが、仏教の教法になってくるわけです。大前提といいますか、一番の命題は
心を浄める
これに尽きます。
心を浄めるとは、別の言い方をすれば「煩悩を無くす」ということになります。
この命題を元にスタートしているのが仏教です。
そして、「心を浄めるためにはどうすればいいのでしょうか?」となりますと、
三学(さんがく)を実践しましょう
ということです。三学とは、
戒・定・慧(かい-じょう-え)
のことです。そして、戒・定・慧を、別の言い方をしますと
八正道(はっしょうどう)
となります。
これが仏教の具体的な実践の根本です。
また教えとしては、
執着(しゅうちゃく)があるから苦悩を招き、執着が無ければ安心を得る
または
無明(むみょう)があるから苦悩を招き、無明が無ければ安心を得る
ということです。
この執着や無明こそ、心を浄める妨げになり、煩悩の本質になるわけです。
シンプルだと思いませんか?
実に明快です。
そして、心を浄めることと、八正道を、さらにセットでまとめたものが
四諦(したい)
です。
※ちなみに四諦を文字通りに「4つの諦め(あきらめ)」と理解してはなりません。「諦」は「真理」という意味です。「諦」は「明らかにする」という意味になります。ですので四諦は、「4つの真理」という意味です。
仏教は、
・心を浄める実践行
・四諦・八正道(三学)
ということを知っていれば、基本的に充分になります。これ以外は枝葉といいますか、より理解を深めるための道案内になります。
仏教の教法は言葉で数多く説かれていますが、まずガイドラインの幹をしっかりと把握することですね。ガイドラインが曖昧ですと、あらぬ方向へ行ってしまうことがあります。
自分の心の世界という大海原に向かっていくためには、全世界を見渡せる海図を持っていくことが肝心です。細々とした海の海図ではなく、まず全体を見渡すことのできる海図が必要です。
細々とした所には入っていったとしても、常に基本に立ち返って全体性を俯瞰するようにすれば、間違えることは無いと思われます。
その基本が、心を浄める、四諦・八正道(三学)になるわけです。
ということでして、仏教とは、そういうシンプルなものになります。