カーラーマ経(増支部・三集・大品5)

仏教の特徴の一つに、「自分が確かめられないことには、関わらない」というのがあります。正確に言いますと、カーラーマ経(パーリ経典の増支部・三集・大品5に掲載)にあるお釈迦さまの言葉です。カーラーマ経とは、こちらのサイトにある通りです。

「自分でよく確かめていくこと」の勧めですね。

想像や空想ではなく、きちんと自分で調べ確かめていくことの勧めです。仏教では、きちんと自分で確かめられないことは棚上げにしたほうが良くなります。あるいは、関わらない、スルーするといった態度です。

このブログでも書いてきましたが、禅定力や、涅槃、悟り、天界、地獄とか、自分で確かめることのできない、いわば形而上の世界のようなことが、仏教には数多く出てきます。あるいは輪廻、生まれ変わりもそうです。

カーラーマ経で言うところは、「本当にあなたは、これらを確認したのですか?」といったいうことです。また確かめることができなければ、安易に信じてはなりませんよ、という姿勢のおすすめです。

もっとも自分で体験はできていなくても、証拠や事実を積み重ね、推理によって「それは本当の可能性がある」という結論に達することができる場合があります。

涅槃にしても、輪廻、天界、地獄にしても、いくつかの証拠から認めることができます。ただし、この検証作業ではシャープな推理力や洞察の深さが必要になるでしょう。

物事を信じる・信じないは自由ですが、少なくとも原始仏教では「きちんと自分で確かめましょう」という姿勢が大切ということです。

「なんとく本当っぽい」ということから信じてしまうことも多いと思います。まあ、この辺りは、自己責任ということで、それぞれの判断でもいいのかもしれません。興味や関心、好奇心もありますし。

ですが、仏教(原始仏教)のスタンスは、「自分で確かめる」スタンスということですね。

ところで仏教は悟りを得ることが目標の一つにもなっています。しかし、悟りといったって、それがどういうものか分かりません。わけのわからないものを目指すことになってしまいます。

仏教では、悟りとか、解脱とか、ある境地とか、そういうものを目指すことをしないで(とらわれないで)、「心を浄める」という現在形の実践になってくるのも、このことと関係があるのでしょう。

こういうことからも、実践仏教では「心を浄める」という一本になってくるのでしょう。

教理的、学問的には、「涅槃を得る」「悟りを得る」「解脱する」といった定義付けもできますが、実践的な仏教の立場からすれば、こういった目標をかかげないほうがよいようです。

「悟りを得る」「瞑想に上達する」とかになりますと、「欲」がムクムクと頭をもたげてくることも多いものです。こういった心に陥ると、前に進めなくもなるようです。

パラドックスですね。
注意したいものです。