仏典は言葉・観念を通して説明しているので注意が必要

仏典は言葉・観念を通して説明しているので注意が必要

初期仏教は、経典という文字のみによる伝承になっています。

ですので、どうしても文字から意味を理解してまいります。

しかしながら仏典が伝えていることは、悟りや瞑想状態といった「言語・観念」を超えた諸々が多くなっています。

ところが、言語・観念を超えた諸々を文字で伝えますと、読み手のほとんどは「文字」を通して「言葉」で理解してしまうことが多くなってしまいます。

その結果、言語・観念領域での理解にとどまってしまうということが、かなり横行してしまっています

これが昔からある「仏教」の実態です。

仏典は誤読が多い

しかしこれによって、仏教に対しての誤解が生じてしまっています。

確かに、文字通りに読みますと、個人主義的で、恩寵や救済のかけらもない、まさに自力のみの宗教のように思えてきてしまいます。

一般的な「仏教」は、これが非常に多くなっていますね。

とにかく誤読が多いです。

犀の角のようにただ独り歩め

たとえば、「比丘は孤独で歩むもの」というのもそうですね。

有名な「犀の角のようにただ独り歩め」の「犀角経」にしても、実は、このお経は「共に歩むことができない善友がいなければ」の但し書きがあります。

そのことは、犀の角のお経の後半に出てきます。

お互い助け合うことの大切を説く

また、数人の比丘が、お互い助け合って生活をしている姿に対して、ブッダは誉め称えて、「他の比丘も見習うように」と伝えている仏典もあります。

実際のところは、「相互に助け合うのを美徳としていた」ことがわかるわけですね。

言葉の一部を切り取って理解して、それが広まってしまっている。

そんなことが起きています。

仏典では、慈悲をまとめて説いた「四無量心」も強調しています。

しかし所々に「自力」を強調するかのような表現が出てきますと、「自力」のほうに関心が向きやすくなりますね。

仏教は文字だけの理解では危険

このように初期仏教は、文字による伝承のみですので、どうしても文字だけから理解する傾向が出てきます。

で、その誤読、誤解が広まってしまって一般化しますと、その誤解が一般化してしまいます。

「文字」「言葉」には分離して規定する性質がありますので、言語・観念や二元性を超えた高次の精神性を伝える経典と接する場合は、注意しないといけないことが結構ありますね。

ですので仏教では、文字や言葉からの学びも必要ですが、やはり実践・実習が何よりも大切です。

最後の段階になれば、観念そのものを超えていくようになります。

しかし最初は、教えとして言葉で理解しますので、言葉での理解は欠かせません。

が、それでも観念、考えだけで受け止めるのは危険だったりします。

必ず実践、実習が欠かせなくなります。

ブッダは何故、真我・創造主を否定したのか

ちなみに観念といえば、仏教は、ゴールが悟りですので、「真我」「創造主」というのを立てることをしていないと思っています。

当時のインドでは、ゴールが「真我」「梵我(創造主)」と思われていました。

ウパニシャッドの思想が代表的です。

そこでブッダは、修行者が誤らないために、あえて「真我」「創造主」という概念を使うのを避けたのではないかと推測しています。

さらに、誤りに陥ることを避けるために、一歩進んで否定する立場を取ったのではないかと推測しています。

もとより「真我」「梵我」もある種の有り様に対してラベルを張った観念ですのでね。

悟った老師も「創造主というのは観念であり対象だ」と言っています^^;

ある種の状態である「真我」「梵我」は、ブッダが推奨する「悟り」ではありませんので、必然的に避ける・否定するのは当然になりますね。

ちなみに、テーラワーダの清浄道論では、瞑想の段階や状態を観念化しています。が、これも坐禅からすれば「余計なもの」とみられてしまいます。

「そんな途中の段階も考え・思い・観念なので、足かせになる」という塩梅です。

ごもっともですね。

まとめ

結局、それぞれの宗教の文脈によって、何を言語化し、観念化するのかは、まさにそれぞれの宗教における考え方や方針の違いもあることがわかってきます。

坐禅からすれば、言語化したものは全て「アウト」です。

「禅とは『あ』である」という言い方もしています^^;

禅は究極であるにしても、ステップアップして修行を進めていく宗教においては、その途中段階を言語化・観念化することは、むしろ修行者の助けになるかなあと思います。

それで、私も「真我」「本当の自分」「創造主」「恩寵」という言葉をを使うのは「いいのでは」と思って使っています。