日本の仏教は再生が可能~仏教は変容の歴史故に善き変革も可能
仏教史は複雑に変化・変容しています。
20世紀という近代においても、タイのように仏教は変革されています。こうした歴史は知っておくほうがよろしいかと思います。
ちなみに仏教史をダイジェストで要約したのは、当方のサイトでも紹介をしています。
⇒仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界
日本には、異端化した大乗仏教の一派が広まり、定着したことは、驚くべきショッキングな話しに聞こえる人もいるかもしれません。
21世紀になってから、テーラワーダ仏教(スリランカのスマラサーラ長老)が、日本へ本格的に入り込むようになっています。
こうした趨勢を受けて、日本の仏教は、葬式仏教であるとか、檀家制度に基づくビジネスであるとか、やれそれと批難され、否定され、「寺院消滅」という書まで出版され、もはや風前の灯火になってきています。
神道とも融合した日本の仏教はブッダ在世の仏教の性格に似ている
しかしながら、インドとは異なる「仏教」が広まったとはいえ、日本の仏教が飛鳥・奈良時代より浸透し、日本人の精神的なバックボーンになったことは否定できません。
日本には、古代神道(本当は「神道」というのは平安時代に作られた様式になります)があり、古代神道と仏教とは融合し、神仏習合といった独自の仏教にもなっています。
この独自の「神仏習合」仏教は、霊性にあふれ、社会と融和する性質を色濃くしています。この豊かな霊性と社会との融和精神は、ブッダ在世の頃の原始仏教の性格に近いものを感じさせます。
ブッダ在世の頃は、天界の神々が比丘に近づき守護し、神々が身近な存在。在家にも悟った者が多く、チッタ居士のように在家が出家比丘を指導することもあった。
これがブッダ在世の仏教。神々も、在家も、出家者も、むつまじくフラットな関係。
こうした性格や性質は、神仏習合としての日本の仏教にもみられます。日本の仏教は、決して頭ごなしに否定されるものではありません。
自然との調和、社会との融和を図り、ピラミッド構造を取らないフラットな平等意識を根底に宿した豊かな感性と霊性にあふれた宗教といえましょう。
自然天然な感性を宿した日本の仏教への可能性
こうした自然天然な感性は、仏教の真髄である「いまここ」「ありのまま」に近い感性や意識であり、見た目や文言としての教理は異なるにせよ、ブッダが説かれた仏教に近いエッセンスがあるのかもしれません。
もちろん宗派によっては、始祖による語録や選択経典を重視するイデオロギー偏重の宗派もありましょう。またこうした観念仏教が幅を利かせて、中世の頃は悪行三昧になったことも事実でしょう。
しかしながら総じていえば、日本の仏教は、自然天然の感性を大事にし、自然な叡智や智慧を重視する趨勢を根底に宿しています。
教義や観念から抜け出して、誰もが有している天然自然の天の理の感覚、自然な霊性の感覚を取り戻して、これを軸とした宗教に戻ることでしょう。
で、これこそが、神代の頃より磐座(いわくら)、神籬(ひもろぎ)、神奈備(かむなび)といった素朴に祀りながらも、そこに「サムシンググレート」を感じ続けた日本人の宗教感性であり、お釈迦さまが説かれた教えのエッセンスに通じるものだと思います。
誰もが内在している宇宙の意識。
宇宙の感覚。
このちっぽけな自分という感覚とは異なる大宇宙の意識こそが自分であり、存在であるという感覚。
これを取り戻し、この宇宙性の感覚に根ざして、日本仏教を再生することじゃないかと思います。
歴史の真実を受け入れる
とはいえ仏教史を知ることで、変に原理主義になるのはこれまたナンセンスです。
歴史は歴史。
歴史的事実は事実。
これは、これ。
大事なことは表面的な装いではなく中身でしょう。
そもそもパーリ仏典にしろお経とは、宗教的体験を言語化したものです。
ならばまずは自らが、少なくとも自我の超越した宇宙性を体感体得することでしょう。
何を申し上げたいかといえば、情報があふれ、歴史の真実が明らかになってきてる今、日本の仏教も「足りないところ」は取り入れて、改めるところは改めて、中身を刷新し、再生する時期に来ているのではないかということです。
可能性はある。
元より融合融和がお家芸の日本です。
しかも信教の自由が憲法で保障されている。
信教の自由が認められている日本だからこそ再生が可能
日本は、タイやミャンマーとは違って「信教の自由」が認められています。タイのように国家主導で仏教を改変(改悪)してしまうことも起き得ません。その気になれば仏教をはじめとした宗教の刷新が自分達の手でできます。
これがタイやミャンマーなら不可能です。
重罪です。
国家が認めない教理の改変や構築は国賊扱いになります。
しかしながら、日本は違います。
自由です。
自由であるが故に、見た目の様式、文言の違いを超えて、本質に迫っていくこともできます。そして、この自由な環境におけるダイナミックな革新が、日本仏教を再生させる道と可能性があるのではないかと思います。
苦言を呈すだけの時代から「再生への時代」へ。
日本の仏教は、再生し、新しいスタイルになっていく可能性があると思います。そのためには、本当の歴史を知り、学ぶことから始まるのではないかと思います。
そして悟り・解脱の修行の要諦を取り入れることですね。アドヴァイタやスピリチュアルで説かれている方法も参考にしていいでしょう。
情報社会ならではです。
時代や社会に柔軟に適合させ、融和融合が得意な日本なら、現代文明に適した現実的かつ自由闊達な仏教の創成も可能だと思います。
これができるのは日本しかありません。
そう、日本仏教には、チャンスと希望があります。
ピンチはチャンス。
今こそ活かされる「金言」でしょう。