気付きの瞑想の目的

気付きの瞑想は仏教で重視されるのも、煩悩を生起させなくなるからですね。

在家の場合は、完全に行うことはまず不可能でしょう。受⇒渇愛の連鎖をキャッチするのも相当に難しくなるでしょう。しかし、こういう教理通りの現象を体験できなきても(またそれを意識する必要もありません)、気付きの瞑想を続けていけば、心がうるおってきます。

四聖諦では、「【苦・集】も了知する」するとあります。これは分かりやすくいえば、「自分が苦しんでいること、自分の心の状態、原因、そういったことに気付きなさい」ということですね。

案外、人は自分のことが分かっていません。気付きの瞑想をする以前に、「自分のことを知る」ということは大切なことです。自分を知ることは、瞑想とも関連しています。

人は知らず知らずのうちに人を苦しめていることがあります。特に最近はテレビなどの影響もあってか、ぞんざいな言葉を吐いたり、小馬鹿にするようなことを言うことが親しみであると勘違いして、相手を傷つけているケースもあります。

世の中の平和を説いたり実現を目指すなら、まず、自分自身をよくすることが必要である、というのが原始仏教の中心的な考え方です。しかしこれは決して個人主義という考えでは無く、慈悲や愛といったものを包括した上での考え方であり立場です。要するに優先順位ですね。

しかし気付きの瞑想を行って、それが正しく進んでいくなら、必ず、自分の姿に気がついてきます。客観視ができるようになるのですね。良いと思って行っていたことへの本当の動機に気付いたり、自分の普段の言動の様に気付いたり、さまざまな気付きが得られます。

気付きの深い・浅いは人それぞれでしょうが、気付きが深まっていくと、自ずと洞察力も深まり、物事をより深い視点から見ていくこともできるようになるのではないかと思っています。

しかし「気付きの瞑想としての境地」みたいなものを求めるなら、こういった自己改革に直結する体験は得られないでしょう。仏教は結果を目指すものではなく、現在形で行っていくものです。

気付きを養うにつれて、自分が見えてきます。自分が見えてくると、まず無理なこと、無茶なこと、相手を悩ますような言動はできなくなってくると思います。そうして、こういった人は端から見ると、とても自然体に見えてきます。

何も悟りを得るとか、何かの境地を得るとかではなく、自己改革、自分の心を浄めることができるのが気付きの瞑想の目的であり、仏教の目指すところになると思います。

そして、こういったことは昔の言葉でいえば「奥ゆかしい」とも言えるでしょう。実に日本の精神文化にも直結する、すぐれた瞑想、それが気付きの瞑想であろうと思います。

決して出家だけのものではなく、一般生活を過ごす現代人にとって計り知れないメリットがあると確信する次第です。