耳ある者どもに不死の門は開かれた
「耳ある者どもに不死の門は開かれた」。
この言葉は、梵天という神さま(おそらく宇宙最高神・創造主)から、ブッダに「ダンマ(仏法)を説くよう」にと要請したときに、ブッダが「衆生に仏法を説こう」と決意したときに述べた言葉です。「梵天勧請」といわれる有名なエピソードの中にある言葉です。
「耳ある者ども」とはどういう人?
それで「耳ある者どもに不死の門は開かれた」の「耳ある者」とは一体、どういう人を指すのでしょうか?
それは梵天勧請のお経の中にありますね。パーリ仏典・中部経典26経「聖求経(しょうぐきょう」にあります。具体的にいいますと、
・心が浄らかな人
・鋭敏で感受力の高い人
・素直な人
・善い性質の人(善人)
になります。この4つの要素を備えている人は、悟り・解脱の可能性があるということになります。
仏法では解脱・悟りの必要な資質を培う
で、これら4つの性質は、仏法の実践の基本でもありますね。実に、仏法は、解脱・悟りのための基本資質を培っていることになります。
心が清らか、鋭敏な感受性、素直さ、善き性質、これら4つは、解脱・悟りの土台となる重要な資質ということですね。ダンマの五根は、これらの項目と重なります。
実のところ「梵天勧請」は、解脱・悟りができる人の傾向や資質を、それとなく示唆しているお経だったりもします。
仏教は難しい?
そんな仏法(ダンマ)ですが、仏教は敬遠されがちかな、と感じることがしばしばあります。仏教は、
・言葉が難解
・概念も難解
・欲などを否定する
ということで、大変、敷居が高く感じられやすいですね。しかも人間の営みを、言葉の上では真っ向から否定していきます。
ですので敬遠もされがちです。さらには宗教団体絡みの事件などがあり、イメージも悪く、毛嫌いもされがちです。
仏教はわかりにくい?
仏教が難解といいますか、難しいのは、仕方ありませんね。どうしても人は言葉で理解しようとするからです。
しかしエッセンスそのものはシンプルで分かりやすいんですね。
ただ、「悟り」とか、「涅槃(ねはん)といったものはどういうもの?」と聞かれれば、文字や言葉で説明できなくなります。このため仏教とは「分かりにくい」となってしまいがちですね。
実際、核心部分は、体験しないと分からないため、率直にいえば、ダンマを求めたり、解脱・悟りへの魅力を感じなければ、興味関心が持たれにくいジャンルではないかと思います。
仏教は難しいのでお釈迦さまも公開をためらった
実際、お釈迦さまは、ご自分が悟ったことを説き明かすことに躊躇していますからね。先にも紹介した有名な「梵天勧請」のエピソードです。
梵天勧請
お釈迦さまは、悟った後、そのまま涅槃に入り、人間としての生命を終えようとしたことが仏伝に伝承されています。
けれども、梵天(ぼんてん)という神が、お釈迦さまに「どうか、その教法を人間のために説いてくれませんか」とお願いして、ようやくお釈迦さまは「わかりました」と受け入れています。
お釈迦さまが教法を説くのを止めようとした理由は、「微細で難しい」からだといいます。非常にデリケートで難しい。しかも、人間の大好きな欲などを無くしてしまうアプローチです。
ほとんどの人間には仏教は理解できない
梵天勧請のお経には、人々は
- 縁起が理解できない
- 心が静まることに興味を持つ人は少ない
- 執着を手放すことができる人は少ない
- 心の汚れを減らすことができる人も少ない
- 涅槃という道理を見ることは難しい
- 世間の流れに逆らうことは難しい
- 真理は、微妙で、深遠で、見がたく、微細
- 貪欲に染まり、暗黒に覆われている
- 煩悩が盛んな人真理は見えない・理解できない
という状態なので、涅槃は難しいと判断されていますね。「とてもではないが難しい」と判断されたのは、至極、当然かと思います。
今でさえも仏教に対する批判や、毛嫌いを示される方もいらっしゃるほどです。ですので仏教、ことに原始仏教となりますと肩身の狭い思いをしたりもします。
わずかに仏教を理解できる人がいる
しかしお釈迦さまは、梵天の懇願を受けて、気持ちを変えます。教法を説くことを決心されます。その理由は、これも最初に書いた通りですが、人間の中にはわずかだけれども、
・心が浄らかな人
・鋭敏で感受力の高い人
・素直な人
・善い性質の人(善人)
がいるからです。また修行によって、こうした資質を備えることが可能だからですね。
そういう可能性に対して、ブッダは、
「耳ある者どもに不死の門は開かれた」
ということなんだと思います。この言葉は、大変重く、深い意味があると思います。