比丘と戒律と律蔵~227の戒律を守る

比丘とは戒律を守る仏教の出家修行者

比丘(びく)というのは、日本では馴染みのない言葉かもしれません。

比丘。

比丘とは、出家した仏教の修行者をいいます。ブッダが現存した時代の修行者は比丘といっていました。

現在では、タイやミャンマーの仏教出家者が比丘ですね。比丘は、227の戒律を守ることを誓った出家の僧侶です。

ちなみに「戒律(かいりつ)」とは、後述しますが、比丘が守る生活規範やルールをいいます。
律蔵(りつぞう)に書いている規範事項です。

日本の僧侶は比丘ではない

日本では、比丘とはいわずに「僧侶」といっています。が、そもそも日本の僧侶は、出家ではありませんね。

日本の僧侶は、在家と同じです。

平安時代の最澄が、大乗戒壇を設けてから日本では戒律がゆるくなっています。

日本の僧侶は、出家という形式は取っていますが比丘ではありません。

日本の僧侶(お坊さん)は、ゆるい戒律の出家者だったりします。いや出家とは言えません^^;

本来の比丘とは、全然、格が違うんですね。

比丘は出家し戒律を授かった仏弟子

比丘は、出家し、戒律というのを授かります。
227の戒律があります。

戒律とは、あれやってはいけない、これやってはいけない、というものですね。
倫理規定と生活規定から成り立っています。

日本の僧侶には、こうした戒律はありません。

比丘とは、正式な仏弟子にもなります。
かなり厳しい世界だったりします。

こうした戒律がある仏教国が、タイ、ミャンマー、カンボジア、スリランカといった国々になります。
いわゆるテーラワーダ仏教圏ですね。

聞いた話しでは、大体、真面目に行っているようです。タイでは、都市部は戒律が甘くなってしまっているところもあるようです。
ですがほとんどは真面目?にやっているようです。

比丘の戒律を規定した「律蔵」の世界

比丘の世界は大変な様子です。
このことは、現代だけでなく、お釈迦さまがいらした当時からそうです。

いろんな失敗をしたり。
後ろ指をさされるようなことをしたり。

実は今も2600年もそれほど変わらなかったりします。

2600年前の比丘の様子は、「律蔵(りつぞう)」という資料に残っています。

律蔵。
ここには比丘の戒律と、それが成立された由来が全部載っています。

律蔵は全部読んでいませんが、断片的な情報を読んだだけでも、生身の人間である比丘が犯した過ちについて、細々と書いてあります。

律蔵は、一種の記録になっています。

誰々が、なになにをして、どうなった、、、そうしてこうした「戒律」ができたというエピソードが、数多く掲載されています。

律蔵とは比丘の失敗談を集めた記録書

ええ、実は、「律蔵」とは、見方を変えれば、全部、比丘の失敗談です。

やってはならない失敗をしでかしたので、戒律が作られたわけなんですね。これを「随犯随制」といっています。

何か間違いをしでかしたので、戒律を設ける。
これが戒律が作られた由来です。

律蔵には生々しい話しが伝承されている

で、律蔵には、これが作られた由来が
こと細かに載っているわけですね。
由来といっても、全部、失敗談です。

恥ずかしい話しとか。
ビックリするような話しとか。
呆れかえる話しとか。

全部、失敗談を集めた資料です。
それが律蔵。

こうした恥ずかしいことが記録に残っただけでも
ショックを受けてしまう人もいるかもしれません^^;

律蔵には、いろいろな失敗談が載っています。

殺しちゃったとか。
出来心で盗んじゃったとか。
女性にHなことをしちゃったとか。

まあ、生身の人間らしい生々しい行為と、その顛末が書いてあります。

月2回のウポーサタという反省会で懺悔告白

で、こうしたことをした場合、必ず反省するようです。行ったことをみんなの前で告白します。
いわゆる懺悔ですね。

そうして許されて、また気持ちを新たに精進していく。

こうした反省会を、月に2回、満月と新月の夜に集まって行います。これをウポーサタといいます。

失敗しながら、ミスをしながら、そうして反省し、許し、許され、そうして成長していく。

これが仏道修行だったりします。

律蔵には戒律を悪戦苦闘しながら取り組む姿が描かれている

戒律とは、高い倫理規定です。
これを成し遂げようとするのは、相当な厳しさがあったりします。

律蔵には、悪戦苦闘しながら、もがき苦しみ、悩みながら取り組む比丘の様子があります。

半ばやけくそ気味になって、トンデモ比丘になってしまい、快楽に驀進してしまった者もいたようです。

でも、心を改めてやり直す比丘。
反対に、サンガを去って行く比丘。

性的な面で、
言うのもはばかるような行為を繰り返し、
何度も失敗し、
反省を繰り返し、
ついには悟った人の話しもあります。

反対に、トンデモ比丘のまま亡くなり、死後、トンデモない世界に転生していった話しもあります。

スッタニパータ「657」には、サーリプッタとモッガラーナに対して些細なことで批難し続けていたコーカーリヤという修行者が、死後、紅蓮地獄へ往ったことも伝承されています。

律蔵に伝承される生々しい人間の姿

律蔵には、実にバラエティ豊かで、人間臭いことが記述されています。

現代社会では逮捕されるような失敗もあります。でも反省するなら許されて、またやり直しています。

中には一生、失敗し反省を繰り返しながら精進された比丘もいらっしゃったのではないかと思います。

見方によっては、人生の悲喜こもごものドラマを見るかのような、泣き笑いのエピソードといった感じです。

律蔵は、人間の赤裸々な本音とその姿が、紛れもない事実として掲載されています。むき出しの姿が、そこにはあります。

戒律を守ることはすごいこと

戒律を守っていこうとする努力の姿勢だけでも、なんかすごいと思います。

とてもではありませんが、よほど意欲が無ければできないでしょう。挑戦しようとする姿勢だけでも称讃ものです。

私たちのような凡人ですと、人の罪を見ますと、とがめたくなります。許せない気持ちにもなることがあります。私もそうなってしまうときがあります。

ですが、とがめるだけでなく、反省し、そうしてまた気持ちを新たにして取り組んでいく。

こうしたスパイラルな実践学習が仏教の世界です。ただいたずらにとがめるだけで終わらないようです。

失敗を認め・反省し・許し・許し合う生き様にこそ成長がある

人間は失敗しながら成長するものですね。
失敗しない人は、まずいません。
みんな、失敗します。
欲望に駆られるときもあります。

これは比丘でも同じなのでしょう。
人間ですので、悟るまでは、同じように何らかの失敗、ミスをしていくのでしょう。

ですので、反省し、許し、許し合う。

これは一般人にも適用できますよね。
何も比丘に限ったことではないと思います。

反省し、許し、許し合う。

また、反省しているなら、許してあげる。

比丘はすごい存在

比丘は、高度な倫理を守りながら生きていこうとする、その姿勢だけでも称讃に値すると思っています。

戒律を守る、守ろうとすること自体、なかなかできないことです。

その上、比丘の中には、人々に教えを説きながら修行もしています。菩薩のようですね。

一般人レベルで見れば、すごいことです。それでも、ミスや過ちをしてしまうことがあると思います。

ですから、反省し、許し、許し合う。
そして成長を目指す。

素晴らしいシステムだと思います。

こうしたシステムは、教育の世界でも活かせるといいなと思います。