一切皆苦の謎
ところで無常・苦・無我のうち、時々問題になるのが「苦」です。苦は、一切皆苦(いっさい-かいく)、一切行苦(いっさい-ぎょうく)ともいった表現も取られます。
果たして本当に全てのものは「苦」なのでしょうか。一切皆苦は本当なのでしょうか。このtこは時々議論もされます。
結論からいえば「一切皆苦」で正しくなります。なぜなら、三相、三法印は「涅槃」という立場からの真理だからです。
我々凡夫の感性では「一切は苦である」と言われても分かりません。「はて?」と疑問がわき起こります。我々凡夫の感覚には「楽」もあるからです。
「人生苦もあれば楽もあり」ではありませんが、人間は苦楽の両方を感じています。ですから「一切皆苦」と言われてもピンと来ません。
ピンと来ない所か「いや、一切皆苦は誤り」と言い出してしまいかねません。
一切皆苦は誤りか?
そんな一切皆苦です。なので中には「一切行苦が正しい言い方である」「一切に執着するのが苦である」といった説明も出てきます。
ごもっともです。そう理解したい気持ちは分かります。
ですが、もしも「執着するなら苦である」とするなら、三法印、三相の成立に疑問が出てきます。なぜなら、無常と無我は、森羅万象の存在としての「あり方」について言っているからです。
「執着するなら無常」「執着するなら無我」といった条件付けはありません。執着があろうがなかろうが一切は無常であり無我です。
苦だけが「執着すれば苦である」と条件を付けて説明理解するのは少々おかしい印象を受けます。真理を説明する上で、苦だけが条件付けで説明される成り立ち自体に違和感を覚えます。
一切皆苦は無常・無我の別の表現
森羅万象が「無常」「無我」であるなら、森羅万象は「苦」であるとしたほうが自然な相互関係になります。一つの真理を三方向から表現したまさに「三相」です。三法印です。苦だけを「執着があるなら苦である」とするのはおかしい印象を受けます。
もしも「執着するなら苦である」といったような説明にするなら、「執着するなら無常」「執着するなら無我」としなければ論理的にもおかしくなります。
しかし理屈で説明しなくても、「無常・苦・無我」そのものは、本当は涅槃を体験した者、つまり悟った者しか本当の意味は分からないのだと思います。
一切皆苦は、悟っていない凡人には違和感のある説明です。なかなかピンと来ません。しかし涅槃に入った者の立場からすれば、一切皆苦なのだと思います。
だからこそ、四諦聖が「こは苦なり」と言っているのだとも思います。
仏教は苦・楽・不苦不楽にとらわれない
そもそも涅槃に至るための修行とは、執着を離れる修行の連続です。感覚器官を通して感じられる、苦・楽・不苦不楽に対しても執着をすることなくひたすら観察していきます。ヴィパッサナ瞑想ですね。
苦しいことが起きてもそれにとらわれず(執着することなく)、楽しいことが起きてもそれにとらわれず(執着することなく)修行を続けていきます。
その結果、涅槃に到達するといいます。
全ては苦・厭離・不浄とする仏教
また「苦」に近い言葉に「厭離(おんり)」という表現があります。厭離もまた、仏典にしばしば登場します。
五蘊を厭離して解脱に至るとか、如実知見によって厭離があり厭離によって離食があって解脱があるとか、厭離によって解脱する関係性が、経典では散見できます。
厭離とは、汚れた世界を厭い離れることをいいます。この世は「汚いもの」なので「厭離」するといいます。また関連して厭離のほかに「不浄」といった言い方もします。この世のものが不浄であるとする「不浄観」という瞑想法もあります。
一切皆苦の本当は悟らないとわからない
このように、苦の他に、厭離、不浄といった言い方もあります。不浄に至っては不浄観もあります。苦については、四諦の公式にも入っています。一切は苦であり、厭離するものであり、不浄であるとしているわけです。
凡人の感性は、一切が嫌なもので離れるべきであるとか、汚らしいものという見方はしにくいものです。まずピンと来ません。ですから、一切皆苦も同じでしょう。真理を体験した者にとっては、一切皆苦なのでしょうが、凡人・凡夫には全てが苦であるとは実感できません。