仏教は心を浄める実践だが
仏教は
心を浄める
教えであり、実践です。
また目標であります。
しかし「心を浄める」の意味は深いんですね。
言葉の額面通りではなかったりもします。
いえ、最初は、言葉通りでいいんですが、
修行が進むにつれて深秘になってまいりますね。
仏教は悟りを目指さない
で、仏教が「心を浄める」と言いますと
「いや、仏教は悟りを目指すものではありませんか?」
という疑問も出てきそうです。
そうです、理屈の上では悟りを目指します。
ですが実践の立場でいえば、悟りは目指すものではないんですね。
ここはパラドックスです。
A+B=C となりません。
実践上では「悟りは目指さない」で、「心を浄める」という現在形の連続になります。
具体的には「あるがまま」「そのまま」という有り様ですね。言葉で説明すれば現在進行形といった表現もできるかと思います。
仏教は現在形の実践
仏教における実践では、ほとんどが「現在形」になります。それが「あるがまま」「そのまま」という有り様です。
「現在形」とは、「未来」に何かを期待したり、「過去」のことを操作しないで、ただ現在において行うということですね。
この現在形のもっとも代表的なのが「あるがまま」という実践になってきます。
「気付き」もそうですね。「今起きていることに気付いていく」という実践です。
目標にすると観念的になる
しかし「涅槃を目指す」となると未来形になります。目標にすると観念になるんですね。で、こういうアプローチは仏教的には違います。
観念に対して意識するという有り様になりますので、この有り様自体が、仏教の実践としてはズレてしまいます。
ですので「あるがまま」という有り様がポイントになるんですね。
このことは近代の大阿羅漢と言われたアーチャンチャーがおっしゃっていることが元になっています。
未来に対して目標を掲げて、それに向かうという有り様にはしません。
反対に、過去のことに対して、それを悔いたり反省することもしません。
観念・思いにしがみつかないこと
かといって、無目的になるとか、反省しないという意味でもないんですね。ここがややこしい。わかりにくい。
要は、観念に対しても向き合い方なんですね。
観念にしがみつかない。
思うことは問題なんですが、その思いにしがみつくことが問題になるんですね。
この微妙なニュアンス。微細な思慮。こういう微細な思慮こそが仏教の特徴ですね。
まとめ
これらは仏教における実践上の特徴ですね。
また一種のパラドックスに感じる点です。
仏教は
・心を浄める
・現在形の実践(あるがまま)
とりますね。
で、この2つも同じことであるということですね。