論事には、このように「どうして、そういう見解になったのか?」と謎めいたものが多くあります。もちろん、その項目も難解なものも少なくありません。
しかし、「正語、正業、正命は色(物質)である」とする考えを、情報の行き来が乏しかった当時、3つの部派で信じられ、しかも共有されたいたということは驚嘆します。
宇宙人に遭遇した話しを、別々の地域で、同じようなことが言われ信じられている、そんな感覚に近いと思います。
私は、この論事でピックアップされた事項は、単なる理解不足や錯誤ではなく、もっと深い、何らかの事実に基づくものがあると思います。
それが「瞑想の禅定よってキャッチされたことではないか」ということです。
瞑想の禅定よってキャッチしたことを、「脳で適切に翻訳(解釈)できなかったもの」ではないかと考えています。
適切な言語化・認識化・観念化ができなかったことということです。
こういったことは往々にしてありがちです。分かりやすい例でいいますと、霊能者がそうです。
霊能者は、何かをキャッチしますが、それを左脳で解釈する際、錯覚して誤るときがあります。何かをキャッチしているのですが、その解釈や翻訳にミスをするということです。
占いも似ています。脳で翻訳・解釈する際にミスを起こす。それが、仏教の世界でも起きて、論事に記されたのではないかと思います。
もちろん論事に関する、この考えに学問的な根拠や理由はありません。私の推測です、
しかし文脈から、以上のように考えます。
禅定力などで見てきた・キャッチしたことを、適切に表現できなかったり、観念化などできなかったことではないかと思います。
そう考えないと、あまりにも稚拙である上、荒唐無稽過ぎるとしか思えなくなるからです。深い瞑想状態によって知り得たことの是非を議論した結果が、論事として残ったのではないかということです。
挙げられている事項も摩訶不思議なことが多く、凡人には理解できない内容なのは、禅定力によって認識したことだからだと考えます。単なる勘違いや錯誤が、共有されるのは理解に苦しみます。
そして論事が、瞑想体験から得られた見解を是々非々した議事録であることは、次の内容からその可能性を見出します。