原始仏教の瞑想について今日はお話しましょう。
原始仏教の瞑想は定(じょう)・念(ねん)の二つから構成されています。これはネットでも検索すればたくさん出てきますのであえて詳しい説明はいたしませんが、ざっといいますとこのようになります。
・定(じょう)・・・禅、ジャーナ、禅定、サマタ、サマーディ、止、と言われる瞑想。
・念(ねん)・・・サテイ、気付き、観、ヴィパッサナと言われる瞑想。
天台宗に伝わる「摩訶止観(まか-しかん)」の「止観(しかん)」こそ、この「定と念」になります。実は、日本の仏教には「定」は伝わっています。観想念仏や阿字観は、まさに止(サマタ)としての瞑想になります。
ですが、「念(サティ)」、つまり「観」の意味が正しく伝わっておらず、文字通り「念じる」「観想する」といった誤解のまま日本で伝わっていました。「念じる」とか「観想」ではなく「サティ:気付く」が本当の意味になります。
もっとも、禅宗には「気付きの瞑想」が伝わっていました。禅宗における只管打坐(しかんたざ)の坐禅は「念(サティ:気付き)」の瞑想になります。臨済宗の数息観も念(サティ)です。
ただ、これらの坐禅が「念(サティ)」として認識はされておらず、禅宗の文脈の中で理解解釈されていました。
仏教の瞑想においては、この「念(サティ:気付き)」こそ最も重要で、特徴にもあります。「念」こそ仏教瞑想のエッセン中のエッセンスになります。
極論しますと「念」こそ仏教と言える程です。これだけ重要な修行が、長年、正しく伝わってきていなかったということですね。
ですが、スリランカ、タイ、ミャンマーなどの東南アジアには各種の技法も伝わっていて、現在も仏教の修行と瞑想が行われています。
「念」、「サティ」、「気付きの瞑想」は、「今ここ」空間を形成するところから始まります。先述の通り、「今ここ」といえば禅宗にも伝わっていて、実は、ほぼ同じです。
禅宗の「今ここに」と、「念」の入口はほとんど同じと言って良いでしょう。禅における「あるがまま」は、「そのまま受け止める」といった「受容性」ですので、大変よく似ています。
「今ここに」の深い浅いはあると思いますが、まずは「今ここに」を知っていただくことが大事であると思います。「今ここ空間」が深く形成されなくても、「今やっていることに気持ちを集中する」ということを、たとえば10分でも20分でも行っていると、気持ちが切り替わっていきます。
これは実際に行ってみるとわかります。瞑想会では各種の「気付きの姪すお」により、「今ここに」を体験していきます。これによって、今行っていることへの「気付き」が養われていきます。
この方法は、「瞑想」というスタイル以外でもできます。たとえば掃除です。
掃除をする際、漫然と行うのではなく、行為や動作を確認しながら行っていきます。これを10分、20分と続けていきますと、掃除の最中は、心は動作に向けられています。途中で雑念が出てきても軽くスルーして、また動作の確認を続けていきます。
こういうことを行いながら掃除をしていますと、終わった後はは心がスッキリします。
これが「今ここに」です。
今ここに気持ちを置く体験はすぐにできます。この感覚が分かるだけでもしめたものと思います。そして、瞑想会では、まずこういった感覚を体験していただくことに主眼を置いております。
もちろん「今ここ」を深めるためには、仏教のより深い洞察や実践も必要になってくると思います。けれども現代人でここまで仏教への習熟を極めようとする方は大変少なくなってくると思います。
ですが、深い部分まではいかなくても、入口の部分だけであっても必ず役立ちますので、できるだけ多くの方々に知っていただくのは有益なことと思います。
近年では、成功法則や成功哲学といった脳内にイメージを描いて、そのビジョンと実現化する方法が広がっています。ですが、仏教の方法は、これとは正反対の方法を取りまして、ビジョンは描かず「今ここに」を目指していきます。
心を切り替えるために、何か別のイメージなりヴィジョンを与えるのではなく、今行っていることをやさしく見守っていく(観察していく)方法ですね。これを行いますと心が静まってきます。心のつぶやきが減っていきます。
なかなかすぐにはこういうことが自然にできるようにはならないと思いますし、私も実習中の身ですのであまり言えませんが、仏教が説く方法とは、このようなやり方になります。