善と悪

善と悪について、仏教(原始仏教)ではどうとらえているのか、それについて紹介してみます。

「善と悪」

いろいろな定義や考え方、とらえ方がありますね。しかし仏教では単純明快です。それは、

煩悩が無いこと(弱いこと)

です。

明快です。

仏教では、煩悩が無ければ無いほど、「善」としています。煩悩がないこと、つまり、心が浄まっているほど善になるというわけですね。

反対に悪とは、煩悩の強いこと、心が汚れていることをいいます。

仏教における善悪のとらえ方は、実は世界中にある宗教や思想の中においても大変明快であり、あらゆる事象に照らし合わせても納得のいく基準です。

日本では、儒教や道徳の影響がありますので、社会や世間に貢献する「度合いの高い行為」を「善」ととらえる傾向があります。いわゆる「徳」の概念です。確かに、社会貢献や奉仕的な活動は尊く、これも善行です。

ですが、仏教では、より掘りさげて、善行為の本質へと迫ります。仏教が説く善行為の本質とは「どういう心で行為をするのか」といった動機の部分です。

分かりやすくいいますと、たとえば、社会貢献をするにしても、本当は名声が欲しいからといった動機があれば、その行為の善は半減してしまうということです。

反対に、社会貢献といった大きな行為はしないけれども、家族や友人の幸せを心の底から願い、献身的にお世話をするなら、この行為は素晴らしい善行為になるということです。

動機に不純なものがあると、善行為の価値は目減りしていくというものです。攻撃的な心、欲望に満ちた心、落ち着きの無い心など、煩悩の盛んで汚れた心による行為は、善行為とは言いがたくなる(労多くても効は少ない)というのが仏教の立場です。

量よりも、質を重んじるのですね。

一般的には、社会や他人への奉仕や貢献の「量が多い」と、大きな善行為をしたと思わています。けれども仏教では、そうではないということです。

質を重視するということは、行為をする際の「心のあり方」を問ことを物語っています。事実、仏教は、「心の清らかな状態で行う行為」をすべて、善行為と言っています。社会貢献とか人助けとか、そういう「外見」「見た目」「量」「規模」ではなく、「心のあり方」です。

このことは初めて知る人の中には、衝撃を覚えるほどインパクトがある判断基準でしょう。

仏教の善悪論を「動機論」と名付ける専門家もいます。善行為の「結果を重視」するのではなく、「動機を重視」するのが仏教の善悪の基準というのです。

実際に原始仏典では、これを説くお経も多くあります。中には、心を込めて座席を提供する行為を続けた結果、天界へ生まれ変わった、という話しが掲載されたお経もあります(後世に作られたパーリ仏典ですが)。

この仏教の善悪論を、世の中の多くのことに照合すれば、スッキリと善悪を判断できます。小学生でも中学生でも分かります。いや、子供のほうが正しく判断できるかもしれません。

では、具体的な事例を見てみましょう。そうすれば、仏教の善悪基準がより理解できると思います。
つづく