お釈迦さま以外にも、過去にブッダとなった方々はたくさんいらっしゃいます。これはパーリ仏典にも記載され、大変な数の仏陀がいらっしゃいます。
しかしほとんどが「独覚(どっかく)」という方でした。独覚とは、悟っても誰でも言わず、そのまま亡くなっていくブッダをいいます。辟支仏(びゃくしぶつ)ともいいます。
「悟っても誰にも言わずに亡くなるとは、なんという身勝手な!」と思われるか方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ブッダとなると、人間には理解のできない微細なメンタリティとなります。ブッダの心には、身勝手な心が一部もありませんので、悟っても誰にも語らないということは、決して身勝手なのではありませんね。
ブッダとなった者の心は、後世のアビダルマという時代になると、「唯作心」という言い方をして説明しています。
唯作心。
執着を離れたブッダ特有の心をいいます。唯作心は、ブッダにならなければ分かりませんが、決して身勝手で自分本位お心情ではないことは間違いありません。ブッダになると、独特の心となるようです。
ですので一人悟って「独覚」となっても、誰にも言わずに亡くなっていくブッダは多かったようです。パーリ仏典に載っている独覚は、相当な数です。
しかし過去七仏は、悟った後、人々にダンマを説いています。過去七仏とは、ブッダになったあと、自らダンマを語り、大衆にダンマを広めたブッダのことをいいます。お釈迦さまも過去七仏のお一人になります。
ところで近年においてもブッダは発見されています。タイにいらっしゃったアーチャンチャーという比丘です。
「発見された」というのがブッダらしいところです。ブッダになっても「私はブッダになった」と宣誓はしないようです。
お釈迦さまのように、自らダンマを広めようとする「しゃべるブッダ」は、実は稀な存在だったわけですね。