縁起
縁起(えんぎ)は仏教では重要な教えの一つです。
縁起は、因縁とも言われますが、因果関係のことをいいます。最近では、因縁というと新興宗教でも使用されていることから、運命を束縛する要因のように思われている節もありますが、これは誤りです。
因縁とは、縁起の別名であり、因果関係の様をいいます。そうして仏教では、
・縁起によって苦を生じ、
・縁起によって安らぎを得る
ということを四聖諦(ししょうたい)で説明しています。
※四聖諦のことはこちら。
四聖諦の前半・・・苦の縁起/煩悩を生起させる連鎖反応の解明
縁起のもっとも整備された形式を「十二因縁」といいます。
十二因縁とは、このことです。
ここでは十二因縁のことはあえて説明しませんが、ポイントは、この十二因縁は、しばらくしてから整理された体系ということです。最初は、2個、3個の縁起支によって説明されていました。最も重要なのは
受(じゅ:ヴェーダナー) ⇒ 渇愛(かつあい:タンハー) ⇒ 執着(しゅうちゃく:ウパダーナ)
という縁起です。
この縁起は、最も重要な連鎖反応を示しています。
眼や鼻、舌などの感覚器官は、何かをキャッチすると「原初的な感覚」を生じます。この原初的な感覚は、「快」「不快」「中性」の3つになります。この原初的な感覚を「受:ヴェーダナー」といいます。
また「快」「不快」「中性」といった感覚(受:ヴェーダナー)を受けると、この反応に対して「好き」「嫌い」「無関心」といった渇愛(タンハー、感情、煩悩)を生じます。
そうしてこの「好き」「嫌い」「無関心」の渇愛を、それぞれ貧・瞋・痴(どんじんち) といいます。煩悩の最も原初的な発生です。実は、「渇愛の段階」で煩悩が生起します。
さらに、渇愛(タンハー)は、より濃密な感情(煩悩)となって執着(ウパダーナ)を形成します。
このように、感覚器官から何かを受けると「受:ヴェーダナー」の作用が起き、連鎖して(自動的に)、渇愛(タンハー)を生じて、執着(ウパダーナ)となって濃厚な煩悩と化していきます。
この煩悩を生起する連鎖反応(因果関係・縁起)は重要ですので、ここまでを整理しますと
受(ヴェーダナー)⇒渇愛(タンハー)⇒執着(ウパダーナ)
「快」・・・・・・・「好き」・・・・・貧
「不快」・・・・・・「嫌い」・・・・・瞋
「中性」・・・・・・「無関心」・・・・痴
原初的な感覚・・・・原初的な感情・・・煩悩
これが煩悩を生起させるメカニズムであり、この一連の連鎖反応を「縁起」というわけです。因果関係です。
「これありて彼あり」です。「受あれば、渇愛あり」です。
このことが、四聖諦(ししょうたい)の前半部分の「苦・集」のことになるわけです。「苦しみを生じる縁起」をいいます。
残念なことに生命は、この連鎖反応(縁起)が、自動的に作動するようにインプットされています。
四聖諦の後半・・・苦を断滅する縁起/煩悩を滅する縁起の活用
しかし仏教では、「気付き」を養うことで、この連鎖反応を引き起こさないようにしていきます。それが、四聖諦の後半の「滅・道」です。
感覚器官でキャッチした「快」「不快」「中性」の感覚の段階で「気付き」を入れると、その後の渇愛(タンハー)を生じさせないことが可能だと仏教では説きます。
これを完全に行うと、阿羅漢になるわけです。
仏教では「気付きの瞑想」を行うのも、この「渇愛(煩悩)」を生起させないようにするためです。救いへの脱出ポイントが、「受 ⇒ 渇愛」という因果関係(縁起)の部分にあるわけですね。
しかしこれは理屈の上の教えであって、実際に行うことは大変、難しくなっていきます。現代では出家しても到達できない場合もあります。それくらい非常に難しいことのようです。出家して清浄な実践を徹底して、どこまでできるかといった世界のようです。
しかも「受 ⇒ 渇愛」を自覚するためには、実は非常に鋭利な感性も必要になってきます。瞑想を深めることで、この辺りの連鎖反応が分かるようになるようです。
ですが、「受 ⇒ 渇愛」の縁起が自覚できなくても、気付きの瞑想を続けていくことで、瞑想中は自覚していなくても「受 ⇒ 渇愛」の連鎖反応は減っていきます。
仮に5%でも10%でも、減らすことができれば、一般人にしてみればかなり安心感も出てくるでしょう。実際、日々の生活において、多少なりであっても(たとえば10分とか20分)、気付きの瞑想を行えば、気持ちがスッキリし、その後も、スッキリした気持ちで生活ができます。
出家のように四六時中(出家でも四六時中はできないケースもあるようです)、気付きを保つこができなくても、一日に少しの間、意識して気付きを保つようにすれば、安心が得られるでしょう。
仏教で「縁起」を説くのは、森羅万象のメカニズムを解明するためではありません。実に、煩悩を生起させないために「縁起」を利用するわけですね。
日々の生活において「気付き」を保つことが奨められるのは、こういう理由からです。