有名な「犀の角」は阿羅漢の心象風景とインド人向けのお経
「犀の角」。「犀の角」は有名なお経ですね。
スッタニパータ(経集)第一「蛇の章」三 に収録されている教えです。
「修行者や求道者はただ一人歩め」といった教えとして、多くの人達の人口に膾炙されています。
しかし、かなり誤読されているんですね。
というのも「犀の角」は、独り覚った阿羅漢となった者の心得・心象風景なんですね。あるいは独覚(どっかく)を目指す人へのアドバイスなんです。
このお経は、完全に悟った人(独覚)の心象世界なんです。また、孤独で内省的な人が多いインド人に当てはまりやすい教えなんです。
「犀の角」のお経は、要するに、
- 独り覚った阿羅漢の心象風景
- 独り覚ろうとする「独覚」向けの言葉
- 内向的で孤独性の多いインド人向け
- 孤独行を尊ぶインド人向け
- ブッダが悟った初期の頃(マニアックな修行者が多い頃)向け
といった「但し書き」が、暗黙の前提にある教えなんですね。ある条件下を満たしている人向けのアドバイスなわけです。
これらのことは、中村元さんの「ブッダのことば」の注釈(本書p253)にもちゃんと書いてあります。
「犀の角」は心の傷や抑圧が強い場合は毒になることも
こうしたことを理解しないまま「犀の角」経を読みますと、誤読、誤解するようになります。
ことに日本人の多くや一般人が、この教えに基づこうとすると、無理が生じたり、苦しくなったりすることがあります。
心の傷や抑圧の反動から孤独に陥っている人の場合ですと、ますます深刻な問題に誘う恐れがあります。「犀の角」のお経は、読み方に注意が必要だったりします。
ブッダには三種類ある~「犀の角」は独覚者[僻支仏]」向け
そもそもブッダ(阿羅漢)には三種類いらっしゃいます。それは
- 正自覚者(サンマーサンブッタ)・・・独りで悟るも言葉で他人をブッダにできる覚者
- 随覚者(アヌブッダ)・・・正自覚者の導きで悟った覚者
- 独覚者[僻支仏](パッチェーカブッダ)・・・独りで悟るも他人をブッダに導けない覚者
です。
で、お釈迦さまは「正自覚者」であって、別格なんですね。
ちなみに「正自覚者」は、地球に過去7人出現しています。これを「七仏」といいます。
七仏とは、言葉で他人をブッダに導くことができる天才でして、正自覚者が出現することで、多くの人は悟ることができるわけですね。
こういうことがありますが、それで「犀の角」の教えは、「独覚者[僻支仏]」向けの言葉ということなんですね。
ブッダは善友と歩むことを勧め重要視していた
で、そもそもなのですが、修行途上の者は「善き仲間とともに修行しなさい」という教えもあるんですね。
事実、同じスッタニパータの「犀の角」45詩句では、
賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め
とあります。
また同じく「犀の角」47詩句には、
朋友を得る幸せをほめ称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め
ともあります。
善友がいなければ、得られなければ、仕方ないので「独り歩め」という意味になるんですね。「閉鎖的で、孤独に生きよ」という教えではないんです。
他にも相応部経典(サンユッタニカーヤ) 大篇 第一 道相応5「八正道5」 第一 善友(一)には、
八正道を成就する前相とに「善友あり」
を挙げています。
「悟り」「解脱」のためには「善友が必要」ということなんですね。
実際、お釈迦さまの教団では、次第にサンガに属して共同生活しながら修行することがが、教えと指導の軸にもなってきます。
「犀の角」経は誤読されやすい有名なお経
「犀の角」経は、最初に「犀の角のようにただ独り歩め」とありますので、この言葉のインパクトを受けてしまいがちです。「ああ、仏教とは、孤独になって独り歩んでいくものなのかあ」と勘違いすることも出てきます。
しかし、こうした「孤独観」が正しくないことは、おわかりだと思います。仏典全体を通して読みますと、決してそうではないことがわかってきます。
で、インド人の性格は、内向的で個人主義的ですので、そうした民族的な気質も、「犀の角のようにただ独り歩め」の背景にはあると考えられています。
「善友がいなければ一人で歩む」というのが本当の意味ですね。
「犀の角」経は、誤読されやすい有名なお経です。【関連】スッタニパータとは?~原始仏典・小部にある本当は難しいお経
独りの修行は間違いを起こし独善的になりやすい
ところで修行上で善友と共に歩むほうが望ましいことは、少し考えてみれば当たり前のことですね。
そもそもサンガがあります。共に修行する環境です。実際の仏教の実践における構造を見ただけでも「独り行」は基本的に推奨されていないことがわかります。
また独りで修行していたならば、勘違いやら間違いを引き起こすことがあります。こういうことは結構、起きがちです。独りよがりになりやすい。で、高慢になってしまうことも少なくありません。
比丘であってもサンガに属することが勧められている
善い仲間(先生を含む)と共に修行し研鑽するのが奨められるのは、自明の理なんですね。
現代でも、出家した比丘であっても、常にどこかのサンガに必ず属するように推奨されています。出家した比丘といえども「独り行」は推奨されていません。やはり間違いが起きやすいですし、独善的になることが多いからです。
在家であるならば、なおさらです。適切なサンガがなければ、よさげな仲間達と一緒に研鑽するのが望ましくなるんですね。
日本人は共同体意識
あと、日本人の場合は、共同体意識が昔からあります。みんなと歩みを合わせていく意識が根深くあります。「協調性」という特徴があります。
日本人にとっては、個人主義的な姿勢は、本質的にそぐわないところがあります。
「犀の角」経のように「独り歩む」というのは、日本人の感覚には馴染まないところがあります。
短期間、独りで修行することはあっても、一生、独りで修行することは、日本人の気質には合いません。
そういう意味で、日本の仏教は、日本人の感性や気質に適したスタイルともいえます。
「犀の角」経は読み方に注意
「犀の角」経は、読み方に注意が必要なお経です。
もしも病的な心理状態にあったり、性格に偏向が強すぎる場合、このお経に触れますと、孤独になることや孤独であることの言い訳や正当性として、「ただ独り歩め」を利用してしまう場合も起き得ます。
こうした使い方は「どうなのかなあ」と感じましょうか。
仏教は「あるがまま(如実知見)」で「観察(中でも自分の本心や動機)」することが主眼となります。自分の本心や本当の動機に気づいた上で、「犀の角」経と向き合う必要もあると思いますね。
「犀の角」は、誤読・誤解が広まっている印象も受けます。日本では随分と誤読・誤解が広まっています。
そもそも論ですが、出家向けの教えを、在家向けの教えとしてそのまま受け止めますと、なにかと問題が起きます。
しかも仏教は、2500年前のサバイバルな時代に登場しています。また個人主義的で内向的気質のインド人に向けて整理された宗教です。インド産の宗教です。
よくよく中身を吟味しませんと、大変な勘違いをしてしまうと思います。「犀の角」も、まさにそうですね。