三帰依文~大内青巒が明治に作成した言葉
「人身受け難し」。この言葉は「三帰依文 (さんきえもん)」にある言葉が有名です。
三帰依文。三帰依文は江戸時代の末に生まれた「大内青巒(おおうち-せいらん)」という人が作ったものです。⇒wiki
大内青巒は、日本の全ての仏教徒にとって必要な文言を求めていたといいます。超宗派的でありながら共通に使用のできる文言。
そこで大内青巒は、明治の時代に、東京帝国大学の仏教青年会と共に、
- 法句経(ダンマパダ):第十四ブッダ182
- 華厳経:浄行品 第七
- 法華経:開経偈
から引用して「三帰依文」を作ったといいます。
「三帰依文」の文言は新しい言葉だったりします。昔から伝承されている言葉ではありません。明治の頃に大内青巒居士が、東京帝国大学(現在の東京大学)の仏教青年会らと作ったのが、その歴史になります。
「人身受け難し」でお馴染みの「三帰依文」ですが、意外や意外で、その歴史は近代に遡るんですね。【解説】http://5294.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
三帰依文の原文
で、「人身受け難し」でお馴染みの「三帰依文」の原文をご紹介します。
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人身受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身、今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解(たいげ)して、無上意を発さん。
自ら法に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
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三帰依文は3つのパーツに分かれています。上から、
・法句経(ダンマパダ):第一四ブッダ 182からの引用と要約
・華厳経:浄行品 第七からの引用と要約
・法華経:開経偈からの引用と要約
となっています。このようにつぎはぎで作られていますが、今では人口に膾炙された国産の文言ですね。
三帰依文の意味
この「三帰依文」の意味を、意訳してくだけた感じでご紹介してみます。
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人間に生まれてくるのは難しい。でも、こうして今、人間となって生まれてきた。
で、仏法とまみえるのも難しい。でも、こうして今仏法と出会って聞いている。
だから、この人間の時代に、悟り(涅槃)を体得しなければ、今度、いつ人間になったときに悟り(涅槃)に至れるのかはわからない。
ならば、多くの善友といっしょに、三宝(仏法僧)を深く尊び信じて身をゆだねようじゃないか(帰依しようじゃないか)。
私は、仏(ブッダ)を深く尊び信じ、よりどころとして生きていきます。多くの善友といっしょに、真理を体得し、最高の生き方ができることを願います。
私は、法(ダンマ)を深く尊び信じ、よりどころとして生きていきます。多くの善友といっしょに、真理の教えを深く学び、海のように深い智慧が得られることを願います。
私は、僧(サンガ)を深く尊び信じ、よりどころとして生きていきます。多くの善友といっしょに、みんなが真理を体現し、まったく自由自在になることを願います。
この上もなく奥深く精妙な真理の法は、無数の生まれ変わりをしても出会うことは難しい。しかし今、私は、その真理の法と出会うことができた。このブッダの真理を体得できることを願います。
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ざっと、意訳しますと、このような意味になると思います。
人身受け難しは法句経:第一四ブッダ 182の言葉
で、冒頭の「人身受け難し」は、元々「法句経(ダンマパダ):第一四ブッダ 182」にある言葉です。
大内青巒作の「三帰依文」では多少アレンジされています。オリジナルの「人身受け難し」は、こちらが原文です。
法句経(ダンマパダ):第一四ブッダ 182
人間の身を受けることは難しい。
死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。
もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい
これがそうです。
ちなみに「法句経182」の後に続く言葉もいいんですね。
183
すべて悪しきことをなさず、
善いことを行い、
自己の心を浄めること。
これが諸の仏の教えである
これは有名な「七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)」です。
- 諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・もろもろの悪をなさない
- 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)・・・もろもろの善を行う
- 自浄其意(じじょうごい)・・・自らその意(こころ)を浄める
- 是諸仏教(ぜしょぶつきょう)・・・これも多くのブッダが説いた教え
人身受け難し~人間に生まれるのは難しい
「人身受け難し」。
仏教に馴染みのある人なら、一度は耳にしたことがある言葉だと思います。
「人身受け難し」とは「人として生まれてくるのは難しい」という意味ですね。これは「輪廻転生」を前提とした教えです。
人(生命)は「天人、人間、修羅、餓鬼、畜生(動物)、地獄」といった6つの境涯を生まれ変わり続けています。
こうした生まれ変わり(輪廻転生)の中で、実は「人に生まれ変わるのはメチャ難しい」とい教えが「人身受け難し」だったりします。
本当は「人間に生まれてくるのは難しい」。それが仏教に伝わる言葉だったりします。
この言葉をかみしめると、「うーん、人間って尊いんだなあ」と思ってしまいます。
ただ、この言葉は2600年前のインドの社会と人口とも関係があると思います。⇒「人身受け難し」は本当か?~2600年前のインドは過疎っていた
ちなみに「人身(にんじん)」と読みます。「人身(じんしん)」ではないようですね^^;
原始仏典を読む際の注意点
「人身受け難し」で有名な「三帰依文」ですが、オリジナルは原始仏典(パーリ仏典)の小部経典「法句経(ダンマパダ)」にある第一四章ブッダ182にある言葉になりますね。
「法句経(ダンマパダ)」は、短い言葉でありながら、仏教が「心を浄めて」「如実知見(あるがまま)」の智慧を得て解脱することを端的にまとめたお経だったりします。
しかし短いお経であるが故に、
- その言葉が誰に説かれた言葉なのかわかりにくい
- オリジナルは詩(ガータ)という簡潔な言葉であるため白黒はっきりしている(説明が足りない)
- オリジナルのブッダの言葉はもっと言葉が多かったはず(経ではエッセンスを抽出したのを文言化)
といったことを想定していく必要があります。でありませんと、原始仏典にありがちな「誤読」「誤解」を犯してしまうと思います。
特にネガティブな気質がありますと、原始仏典のような簡素な言葉は、かえって自らの内にあるマイナス傾向と共鳴してしまって、仏典を自虐的に解釈し、自他を厳しく罰し、時に攻撃をもしてしまう「観念の凶器」「自虐としての仏教」としてしまうことも起きます。
「法句経(ダンマパダ)」を読む際にも、簡潔であるが故に、その意味をつかみ理解することは難しいということを念頭に置かれると、よろしいのではないかと思います。